薪ストーブと里山保全──熊出没の背景を考える

薪ストーブと里山保全──熊出没の背景を考える

近ごろ、熊が人家の近くにまで出没し、思わぬ被害が増えているというニュースをよく目にするようになりました。山にいるはずの野生動物が、気がつけば住宅街に現れる──そんな“境界の曖昧化”が全国で起きています。

ブナ・ミズナラなどの堅果類(ドングリ)は、秋に熊が脂肪を蓄えるための重要な高カロリー食です。研究によれば、堅果類の豊凶は毎年大きく変動し、不作年(いわゆる「凶作」)には熊の行動範囲が拡大し、人里へ降りてくる傾向が高まることが確認されています。

熊が頻繁に人の生活圏内に現れるの理由は、森の変化や餌不足など複数の理由がありますが、私はもうひとつ、「人の暮らしから消えていった“煙”」も関係しているのではないかと感じています。

失われつつある「煙の気配」

一昔前まで、日本の里山では日常的に薪を焚きました。風呂を沸かし、煮炊きをし、農作業の合間には野焼きも行われ、村のあちこちから細い煙が立ちのぼっていました。動物は煙の匂いを嫌がり、火のある場所には近づきません。そうした“人の暮らしの匂い”が、自然と生活圏を分けていたのです。

しかし現代では、お風呂は給湯ボイラー、煮炊きはIHやガスへ、野焼きは各地で禁止され、かつて当たり前だった煙の気配がすっかり姿を消しました。人間の生活圏が“静かな空白地帯”になったことが、動物にとって境界を曖昧にしたのかもしれません。

里山の風景

薪ストーブが残してくれている、火のある生活

そんななかで、薪ストーブは数少ない“煙を扱う暮らし”として続いています。家の煙突から細く上がる煙は、どこか懐かしい風景を思い出させるだけでなく、「ここには人が暮らしている」というメッセージでもあります。

多くの哺乳類は煙の匂いを危険として認識し、避ける行動を取ります。これは森林火災から逃げるための遺伝的行動と考えられています。日常的に薪を焚く生活があった頃は、「人がいる場所=煙・火=近づくべきでない場所」というシンプルな学習が動物側に成立しやすかったとも考えられます。

もちろん、薪ストーブは動物よけのための道具ではありませんが、人の営みの匂いがあることで、自然と距離感が保たれる部分もゼロではないのかもしれません。

さらに、薪を使うという行為は森との関係も教えてくれます。里山の管理が行われなくなると、藪が深くなり、見通しが悪く、動物にとって隠れやすい環境になってしまいます。近年は高齢化・過疎化によって農地や林道の管理が進まず、人と動物の生活圏の“緩衝帯”が失われつつあります。薪ストーブの燃料として薪を使うということは、森を健康に保ち、動物が食べ物に困りにくい環境づくりに間接的に貢献することにもつながるのです。

そしてもうひとつの視点──「狼がいた時代」

熊の出没が増えている理由のひとつとして、天敵であった狼の不在も影響しているのでは無いかと、個人的には考えています。

日本ではかつて本州、四国、九州に日本狼(ニホンオオカミ)が広く生息していましたが、1905年(明治38年)に奈良県で最後の1頭が捕獲されたのを最後に絶滅したとされています。当時は「害獣が減って良かった」という声もありましたが、その後に起きた生態系の変化は、私たちに大きな教訓を残しました。

狼が絶滅した後に現れた変化は、シカやイノシシなどの草食動物の爆発的な増加でした。天敵を失った草食動物は、自然の個体数調整機能を失い、異常に増えすぎる状況になっています。現在、日本各地でシカによる食害が深刻化しています。シカが樹木の樹皮を剥いぎ、下草を食べ尽くすことで、森林の健全な更新が阻害されて土砂災害のリスクも高まります。農作物への被害も年間数十億円規模に達しており、農林業に従事する人々を苦しめる結果になっています。

狼は生態系ピラミッドの頂点に位置する頂点捕食者。その存在が草食動物などの行動と個体数を調整し、森林・草地・河川に連鎖的な改善をもたらすことがあります。これを「トロフィック・カスケード」と言います。

例えば米国イエローストーン国立公園では1926年にオオカミが絶滅した後、大型草食動物エルクの増加によって生態系のバランスが崩れたため、1995年と1996年にカナダから約49頭のオオカミが再導入されました。この再導入により、エルクの行動パターンが変化し、植生の回復やビーバーの復活、ひいては生態系全体の回復につながり、川の流れまで変わったと報告されています。これらの事例は頂点捕食者の影響力がいかに大きいかをよく示しています。

もちろん、こういった事例を日本の山にそのまま当てはめられるほど単純な話ではありません。地域社会の不安、放牧地の被害、文化的背景など課題は多いでしょう。

それでも──
「生態系のバランスをどう取り戻すか」
「人間だけの力で管理する時代は限界なのではないか」
そうした議論を始める価値はあるはずです。

熊が近くなってしまった今だからこそ、「人の営みが森にどう影響しているのか」「失われた“煙の境界”が何を意味していたのか」「どんな形なら動物たちと共存できるのか」
そんな問いを改めて考え直す時期なのかもしれません。

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